彩社会福祉事務所

加工担当 梅原 浩之・貴島 千尋

Interview

加工担当
梅原 浩之・
貴島 千尋

障害者福祉事業所 瑞穂

瑞穂とはどんな場所ですか?
いろんな障害の方がおられて、重度と言われる人も軽度と言われる人も、いろんな障害の方が仕事をしに通っている場所です。仕事の内容はいろんなものがあって、食品加工だったり、清掃業務だったり、自主製品で版画を彫ったり、さをり織りを織ったり版画をしたりして、商品が売れた代金だったり、清掃業務の委託料などから工賃を得ています。
年齢層も、40年前から通ってきている人は、もう60代〜70代になるし最近、学校卒業してすぐに入ってきた入ってきた18歳の人もいます。年齢の幅も広くいろんな人がいます。
その中で、瑞穂は「より弱い立場の人を大切に」という理念でやってきました。年齢が若いからとか障害が軽いからとか、そういう事ではなくて、「今、本当に一番困っている人は誰なんだろう」ということをみんなで考えながら、その当事者の人も発信して、周りの人も考えて、弱い立場の人を大切にやってきています。
常に30人~40人の人がいる中で、毎日いろんな人が来るのでその時々によって「困っている人」というのは変わってきます。職員だけではなくて、利用者さん同士もそのあたりを敏感に感じて、思いやりを持っている人が多い場所だと思っています。40年経っているので、家族っぽいところが瑞穂らしいところかなと思います。
40年前はどんなところからスタートしたのですか?
前所長の元藤タカシさんの家にひとりの障害のある人が住みだして「この人の働く場所はどうしようか」というところから始まりました。当時、元藤家にはいろんな人が集まってきていて、昔ヒッピーとか流行っていた時代があって、みんなで夢を語り合ったり、「みんなで理想郷を作ろう」みたいなことからのスタートだったそうです。今の時代からみると、ちょっと変に見えるかもしれないけど。
で、気が付いたらこんなに広がっていた?
そこに、町の人たちが集まってきて、「こんなんしたら?」「こっちにも障害のある人いたで」みたいな感じで、住む場所と働く場所を作って行った。
そして今も「より弱い立場の人を大切に」していっている。「素食の日」っていう取り組みもされてますよね。
「素食の日」は、月に一度ご飯とお味噌汁だけにして、浮いた食費をカンボジアに送り続けてきた。最近では災害も増えている。東北だったり九州だったり…。以前はカンボジアだけだったけど、最近はみんないろんなニュースを見たりするから「次はここに送りましょう。」「ここはどうですか?」と利用者さんからも声が上がる。施設のなかでも喫茶の時間があって、コーヒーチケットを買うんだけれども、自分の分と余分にもう1枚買って、飲んだつもりになって寄付をしたり、毎日コーヒーを飲む人は毎日入れたりして、じゃあそれをまとめて「これはどこに送りましょう。」と利用者さんが意見を出し合って決めたり。
今回もはや助けるのは人じゃない。「困っている牛を助ける。」福島で放射能を浴びてしまった牛を助けるためにコンサート開いて募金を集めたり、瑞穂祭で募金を集めて、東北に送ったり。最初の3〜4年は避難している子どもたちのサマーキャンプに。その時々でみんなで話し合いながら決めている。
生前に前所長の元藤さんが言っておられたのは「障害者は、ただ弱い立場の人間じゃない」と。社会的に見たら弱いかもしれないけど、福祉の制度もだいぶできてきて、「この人たちが一番弱い立場じゃないからもっと他の事に目を向けていこう」と言っていた。
そういうところが、cenciのスタッフがここに見学に来た時に「誇りをもって働いている空気を感じた」という背景でしょうか?お金のためだけに働いているわけじゃないというか…
ここ数年、「これは自分の仕事」「これは自分が作って売れた」「見学者に説明をするのは私がしたい」とかそういう感じが出てきている。みんなのためにとか、弱い人のためにというのは昔からあって、そこに加えて「これは自分の仕事やからするんや」というのは最近、強くなってきているのかな。昔から長くいる人は「これが自分の仕事や」っていうのがあるけれど、最近はいろんな選択肢がある中で、「自分はこれを仕事にするんだ」出てきたというか…。
「職業に貴賎はない」と言うけれど、実際、昔の障害者施設は内職などが唯一の仕事だった時代がある。ここでも30年前からずっとやっている内職がある。それが唯一の仕事だった時代。だからそれに対して、今でもその人はプライド持ってやっている。そして、時代が変わって内職だけじゃなくなってきて、社会的にも必要とされている仕事をしっかりと瑞穂としてできるようになって、それを自分の仕事としてできるようになって、その仕事にプライドを持ってやっている若い人たちもいる。仕事の中に社会的な価値ややりがいを見いだしている事が、はたから見たら、誇りをもって働いているように見てもらえるのかなと思う。
障害者施設を全く知らない人は、具体的にどんな仕事をしているか、わからないこともあると思うので。
内職は、タコ糸やしつけ糸を巻く糸巻き台紙を上の枠から外して数える仕事です。それを今は機械でできるんだけれども、わざわざ残してくれている。会社との30年以上のお付き合いの中で残してくださっている。
清掃は、市営団地の清掃とJRのゴミの分別、近江神宮の掃除。近江神宮は森だし、常に枯葉が落ちているし、枝が落ちてくるし、台風が来たら木が倒れる。むっちゃ重い石も転がってたりする。
食品加工は、クッキー、ケーキ、マーマレードジャム、お味噌、製麺、スープなどを作っている。
すごい幅広い仕事をしている。
そうなんです。いろいろしてることが他の仕事に転用できるような形を作っていきたい。夏ミカンを収穫しているので、ゆずの収穫だってできる。そんなふうに。クッキー生地を丸められるなら、他に丸める仕事もできる。一人一人の技術を、形や場所が変わっても同じような作業ならできるようにしていたら仕事の幅が増えて、季節によっていろんな仕事ができたりする。
障害者施設って、実は何でもできる。どんな仕事もできる。
これやったらできますよというのを作っていきたい。版画の仕事は、今回は40周年で大津絵をモチーフにした版画でカレンダーを作っている。伝承されるものを継ぐ人がいなくなっている、それならその継ぎ手に障害のある人の力を使ってくれたら、担い手になれたらいいかなという意味合いもある。
障害者施設は、ここはケーキ屋さんだからケーキを作る人集まってください、だけではなくていろんな人が色んな得意や不得意を持って集まってくる。だからいろんな人がハマる要素を持っていないと…、ということは結果として幅広い仕事になっているのか。
たぶん今の主流は二通りある。例えば、オモヤさんのように農業1本でいく。でも農業はものすごく作業分解できるので、障害のある人がどこかにかかわれる。瑞穂は…、たぶん、瑞穂ほど多岐にわたってやっているところはそんなにないかもしれないけど、新しい障害のある人が入ってきた時に、何かできることがあったらいいよね、といろんなメニューを用意する。
今はずいぶん、何の仕事をする施設というのが、障害者施設でもはっきりしてきて、利用者は選びやすくなっている。
歴史的に言えば、何をするためというより、とりあえず、障害のある人が集まってきて何かしよう、から始まっている。仕事に人を合わすんじゃなくて、この人にできる仕事は何だろう、と仕事を作ってきたから、歴史のあるところはいろんな仕事があるかな。
仕事を通して、障害のある方は、どんな変化をされますか?
ここ数年は瑞穂で働いた後、一般就労する人が増えてきて、みんなそれは刺激になっている。卒業していく人に色紙を書くときも「就職おめでとう!」「頑張ってください!」と書いたりする。「自分たちも就職できるんだ。」ということが希望にもなっているし、自分のやっている作業も「もう一つステップが上のことをしてみたい」とか、今まで一つの作業しかしてこなかった人が「違う作業もしてみたい」とか言って来られたりして、自分から意欲が出てくるのが変化かな。そして就職した人も、ボランティアとして作業しにまた瑞穂に遊びに来たり、行事に来たりして、そこでみんなワーッと盛り上がって、ぐっと全体が盛り上がるというか。
瑞穂で働いて得た工賃、一般就労して得た賃金、みんなどんなふうに使われてますか?
お給料が出たらこれを買うと決めてる人、家族がお金の勉強のために買い物を一緒にする人、パーっと使ってしまう人…。就職した人は、瑞穂にいたころより急にお給料が増える。「何に使うの?」と聞いても、「いやあ…」と、あまりピンと来ていない人もいる。これからなのかなと思う。最近やっと梅田のカフェに遊びに行ったというような話を聞くようになった。でも…、やっぱり貯めている人が多い気がする。貯めて何に使うのかな。滋賀県の人は堅実だからためてしまうイメージがある。いいことだと思うけど…。
そういう意味では、お金だけじゃない働く価値を持っている。唐辛子の作業はどうでしたか?
最初は目が痛くて大変だったりしましたが、だんだん慣れてきてみんなうまくできるようになってきました。食品加工の班は7人いるのですが全員何らかの形でかかわれるように工夫してやっています。
今回の柚子唐辛子プロジェクトの話を聞いた時どう思いましたか?
今まで食品加工班でクッキーなどを作っていて、私の感覚ですが、「作った→売れた→よかった!」みたいな感じで毎日毎日作っていたのが、最近は売るために作る、そこを意識してやっていけるようになってきている。利用者さんにはそれがわかりにくい人もいて、なんとなく毎日作っていた人もいる。営業活動に行ける人は売れるところも見ているけど、行けない人は、作って、作って、作って…。それが売れようが残っていようがあまりわからない。それはあまりよくないなと思っていて、今は出来るだけ、これだけ売れたよとか、これが売れたらどうなるとか、一緒に確認するようにはしている。それでもやっぱり限られた販路というか…決まったところだけという中で、今回の柚子唐辛子の話を聞いたときに、すごく広いというか、いろんな人が買う商品でいろんな人に知ってもらえる、みんなが知ってるお店の名前だったり、かなり大きなお話だなと思って自分はびっくりして…。それを作れる、それを売るんだ、ということは利用者の方にもしっかりと伝えていかなければならないなと思いました。
まだ種とりの段階だから、9月10月、柚子が取れて、もう少しこれがこんな風になっていくんだよーと見えるようになってきたら、しっかり伝えなあかんなとすごく、どう利用者さんに伝えたら伝わるのかなということを頭の中で考えています。先日の打ち合わせでcenciに行った時にも、「つながり」というのをおっしゃっていて、オモヤさんで作った唐辛子を、瑞穂で加工して、cenciさんで売る。それだけでも凄いつながりを感じたところに、ゆずお収穫させてもらうことや、与論島のお塩を作っている秀和園さんのメールを読んだりして、これだけの人が関わって一つの商品を作るんだな、とプレッシャーも感じて…。
ウチだけで作っている商品なら失敗しても、また、材料を買えばいいことだけどそういうわけにはいかない。オモヤさんががんばって育てた唐辛子…。それだけ皆さんの思いが詰まった商品なんだということを改めて感じている。さっきから、利用者さん利用者さんて言っているけれども、私自身が、自分として、いま、自分のやっている仕事が一気にぱっと広がったというか…、毎日瑞穂に来ていて職員として仕事をする中で、「いろんな作業をしながら社会と繋がって…、」と頭では思っていても、だんだん閉じて行っていた部分が自分の中でもあって、今回のこの話があって、京都にも行かせてもらって、cenciのお店に行って、みなさんの顔見て、すごくワクワクした。皆さんプロで一流の方たちと接する中で、自分もその役割をしっかり果たさなきゃいけないな。っていうので緊張もしていますが…。
出来上がれば小さな小瓶だけれども、そんなたくさんの人の思いが入っている。
これだけ参加する人が多いモノはどんどん少なくなっている。簡単に作ることの方が求められるし、需要も多い。そんな時に何でこういう方法でやるのか、っていう、cenciのシェフの思いとか、そこに乗っからせてもらっている部分もある。
障害者云々じゃなくて、彩社会福祉士事務所がハブになって、たまたま有名レストランを知っていて、たまたま障害者施設で、農業をしているところを知っていて、食品加工しているところを知っていて、与論島に行ったらたまたまそこで手の込んだ製法でお塩を作っていて、その"たまたま"が全て、つなげられるような柚子唐辛子というアイテムが器になっている。そういうストーリーを描きに行くためにやっているわけじゃなくて、こうなったというのは坂本シェフがやろうとしていることに通じるものがあるのかな。

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